2006年06月29日


活動ニュース


2006年6月29日
 
6月末に栃木県佐野市にある“佐野市郷土博物館”を訪ねた。足尾鉱毒事件の舞台となった旧谷中村が廃村となって100年になるのに合わせて行われた田中正造企画展を見て、公害の原点と言われる足尾鉱毒事件を命がけで闘った田中正造をさらに知るためである。
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田中正造が足尾鉱毒被害民の救済と鉱毒問題の解決を求めて明治天皇に直訴したのは、今から約100年前の1901年12月10日のことである。正造は議会開設の必要性を訴え、50歳の時、1890年(私の初当選のちょうど100年前)に帝国議会の第一回総選挙で初当選。その時から議会において足尾鉱毒問題に取り組み始めるが、議会が開かれる度に、この問題を取り上げている。被害者の救済のみを思い、激しく質問する姿は、『成功雑誌』(大正2年 10月号)に次のように記されており、城山三郎がその作品、『辛酸』の巻頭に引用している。「唾沫四方に飛び、一道不穏の狂熱、沸々として満身の毛孔より噴射するものの如く、眼中また政府なく、議会なく、唯だ無告憐れむべき鉱毒被害民あるのみ。」

正造の質問また質問の結果、鉱毒問題は社会に広く知られることになるのだが、ついに議会では解決することができず、61歳の時に議員を辞めて、以後、73 歳で亡くなるまで、被害者のために闘い続けるのだ。

佐野駅から乗ったタクシーの運転手さんの「田中正造は佐野の誇りです」といった言葉や、移築された生家では、ボランティアの女性が丁寧に案内してくださり、まもなくできあがる田中正造翁のドキュメンタリー映画のことなど誇らしげに話してくださった様子からも、100年たってもなお“正造翁”がこの町で生きていることを実感する。

今回の企画展で初めて公開された貴重な資料のうち、正造直筆の「辛酸亦入佳境」(辛酸また佳境に入る)が心に残った。1907年、正造が67歳の時に渡良瀬遊水池をつくるため旧谷中村が強制収容となって、闘いのために残っていた家屋16戸が強制破壊された頃に書いたもので、「より困難な状況に身をおいて絶望することなく、むしろ、その境地を楽しむ」といった意味の言葉である。闘っても、闘っても解決できない困難な時代の中で生き抜いた“たたかいの人 田中正造”の強さを突きつけられた思いがした。

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被害民の救済のために全力を投じた正造が亡くなった時に持っていたものは旧約聖書と日記と帝国憲法と渡良瀬川の小石が3つ入ったズダ袋だけであったと言う。正造は、基本的人権の考え方がまだ行き渡らない日本で、闘いを通じて人々の生きる権利や環境との共生を根本に据えた思想を確立した。政治に生きるものとして、かけがえのない命を大切にする田中正造の思想に学びたいと強く感じた旅であった。

※佐野市郷土博物館については、佐野市観光協会のホームページで紹介されています(http://www.sano-kankokk.jp/tour_gu/faclt/tg_faclt_c_001.html)。
企画展は既に終了していますが、常設展示でも田中正造を紹介しています。